プロフィール

誕生

幼少期

  • 平成6(1994)年1月に、中小企業を経営する一家の長男として世田谷区に生まれました。
  • 幼い頃からリーダー気質・お世話好き。3歳の時から、まだ字が読めない同級生に絵本の読み聞かせをしていました。
  • 3歳児で読み書きができる「変な子」として見られ、些細なことで、のけ者になることも。
2000年

小学生時代

  • 球技は苦手でしたが、学校の野球チームに加入。毎週の練習をこなす中で、球技ではなく持久走が得意なことに気づきました。
  • 小学校でもリーダー気質・お世話好きを発揮し、学校の代表委員に立候補。4年生・5年生と2年間連続して務めました
  • 小泉内閣のころ、国立の学校であった私の小学校は、国立大学の民営化(法人化)により、国からの援助が先細りして、資金難に。実験道具などを更新できない事態にまで。時の総理が決断すれば、こうも生活が変わるのかと身をもって体験し、政治を意識しだしました。
2006年

中学校時代

  • 陸上部に入部。一度やり始めると熱中してしまうのが良くない癖。走りすぎて足底腱膜炎を発症。陸上部でもリーダー気質を発揮。2年生では20人の部員をまとめる部長を勤め上げました。
  • 学年の仲間の後押しを受けて生徒会長に就任。要望が強かった「購買部」の設置に尽力。学生側の要望と、学校側の予算を踏まえて、知恵を絞ったのが、食品自販機の設置。なんとか設置にこぎつけました。
2009年

高校時代

  • 放送委員長に就任。緊縮財政の中での予算に苦悩。まだ見ぬ後輩のための予算措置をしようと思い立ち、何十年も使える高耐久機材への更新を断行。それ以来、「後輩(将来)世代に恥ずかしくない予算を」という考え方は変わりません。
  • 進路を決めるのは高校のこの時期。「将来政治家として地域や国を良く変えよう」と決心。まずは国のために働き、力をつけるために官僚を目指し、東大法学部を受験することにしました。ただ、東大には70点差で落ち、1年浪人しました。
2013年

大学1・2年時代

  • 東大で電通過労死事件を担当する川人弁護士による「法と社会と人権ゼミ」に加入。名前は堅いですが、過労死問題や拉致問題など、被害者側の人権を軸に広く社会問題を扱う、東大教養学部最大にして伝統のゼミ。
  • ゼミ長に就任し、新たな取り組みを行いました。それは、人権問題から少し離れて社会事象を捉えること。ゼミでは、「ゆとり教育」を肯定的に捉えてみたり、日本の防衛政策を見つめなおしてみたりと、多岐にわたる活動をしました。この経験が、私の基本政策に対する考え方の基礎になっています。
2013年

大学3・4年時代

  • 地域経済の活力を生み出すのは民間企業の方々。ならば、自ら企業の経営に携わってみたいと思い、ベンチャー企業の立ち上げに参画し、営業部長に就任。ベンチャー企業を5倍に成長させる過程に携われたのは、かけがえのない経験でした。
  • 3年生では交渉学を専攻し、17人のゼミ生を率いて、大学対抗交渉コンペに出場。2ヶ月間寝る間を惜しんで猛特訓をして臨んだものの、シンガポール国立大学に惜敗し、アジア2位。海外から学ぶべきことがたくさんあると気付かされました。
2017年

財務省時代

  • 財務省入省後は、財政投融資・産業投資を担当し、政府によるスタートアップ育成と税外収入確保の両立を提言。その後、四国に赴任し、凶悪脱税犯の取り締まりを担当。その、実績が買われて、高松国税局長賞を受賞しました。
  • その後、データサイエンティストに転じ少子化対策・インフラ投資についてデータに基づく予算立案の第一人者になり、朝日新聞や日経新聞では特集記事が組まれました。
  • さらには、講師の立場も担い、7万人の財務省職員に対してデータ分析を教える講座も担当しました。
2017年

社会貢献のための「副業」

  • 起業経験と財務省の経験の中で、日本のために活躍するだろう人材が、情報不足だったり、仲間に恵まれていなかったり、というだけで活躍の機会を失ってしまっている現状を痛感しました。
  • そこで、財務省で働きながらも友人ら30人を集め「就職活動支援塾」を開講する非営利プロジェクトを土日に実施。約7年続けるなかで、約1000人をサポート。(国家公務員法104条に基づく無償兼業)
  • 教え子が自分の目指したいキャリアに歩みだす姿を見ると、心の底からやりがいを感じます。
2023年

世田谷新時代
区民とつくる新しいカタチ